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人生朝露

人生朝露

身体技法と老荘思想 ~技と道~。

荘子です。
荘子です。

後輩・松田丈志の成果と、久世先生の教育方針に気をよくしたので、
五輪の意匠。
たまには時節に合わせてオリンピックについて。

中華人民共和国 国旗。  インド共和国 国旗。
東洋思想、というか、我々の文明の先達としての中国とインドは、長い歴史と広大な領土、膨大な人口、様々な民族や多様な文化を抱え、現状においては新興国として位置づけられている、という共通の特徴を有しています。しかし、オリンピックについては、歴然とした差があります。中国は北京のオリンピックでは世界一のメダル獲得数を記録しましたが、インドは同じ北京大会において、歴史上初の金メダルを獲得したばかり。ロンドン大会でも、両国の獲得したメダル数の圧倒的な差は変わりません。これは、単純にオリンピック開催国であった経緯や国威発揚の捉え方の違い、というだけでなく、文化的な土壌の差というのもあると思います。

というのも、インドのヨーガは静的なものが多く、全身を使う場合も舞踏への発展にとどまり、身体を動かす技法の広がりがあまり見られないんです。仏教やヒンディーといったインドの思想の中にも「身体性」についての思想や研究は多く見られますし、軽んじるつもりはないんですが、中国人の「身体性」についての広がりと深度というのはちょっと異質なんです。はっきりと見えるのは中国拳法の発展ですが、明らかに老荘思想や広い意味での道教の観念を加味することによって初めて、格闘技という技法が醸造されていっていると感じられるんです。

中国拳法の中でも、太極拳のように、道教に由来する武術もの流れがあります。
こちらは老荘思想という枠組みからでも読み解きやすい武術です。

参照:Wikipedia 太極拳
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E6%A5%B5%E6%8B%B3

また、中国武術において特に知られる少林寺の拳法。こちらは、仏教における武術の流れです。その歴史において「達磨さんがインドから拳法を伝えた」という有名な由来があります。非暴力(アヒンサー)を宗とする仏教の中で、格闘技の要素を残しているのは禅仏教の特色のうちの一つですが、これをインドの思想のみで捉えるのは非常に難しいわけです。

Wikipedia 嵩山少林寺
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B5%A9%E5%B1%B1%E5%B0%91%E6%9E%97%E5%AF%BA

例えば、現存するインドの格闘技といえば、せいぜいカラリパヤットが挙がる程度。達磨以降、インドから中国へ格闘技が伝来したというような大きな記録は見られませんし、文献の中にも見られない。現在の中国武術のほとんどは、きっかけはどうあれ、中国で独自の発展を遂げたものと言えるでしょう。

参照:Wikipedia カラリパヤット
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%91%E3%83%A4%E3%83%83%E3%83%88

個人的には、中国武術から琉球で空手が発達したのも、琉球の土着の信仰と道教の関連性や、琉球の仏教の隆盛が禅仏教から始まったことから見ています。禅仏教で語るにせよ、道教で語るにせよ、その原点に位置する『老子』や『荘子』『列子』なしに武道は語り得ないと言えるほどまでに、明白な影響が見られます。

日本を代表する武道「柔道」という用語も道家思想を通さずに理解できるものではありません。

例えば、
列子(Liezi)。
『天下有常勝之道,有不常勝之道。常勝之道曰柔,常不勝之道曰彊。二者亦知,而人未之知。故上古之言:彊,先不己若者;柔先出於己者。先不己若者,至於若己,則殆矣。先出於己者,亡所殆矣。以此勝一身若徒,以此任天下若徒,謂不勝而自勝,不任而自任也。』(『列子』黄帝篇)
→天下に常勝の道があり、常勝ならざる道がある。常勝の道を柔といい、常勝ならざる道を強という。この二者は分かりやすいようでいて、人はこれを分からずにいる。だから昔から「強とは己よりも劣る相手に対するためものであり、柔とは己よりも優る相手に対するためのものである」とある。強を己より優る相手に用いるのは危ういが、柔はいかなる場合にも応じる姿勢と言える。この道を以てすれば、はからいもなく我が身に打ち克つことも、天下を任せることもできよう。すなわち、敢えて勝ちを求めずとも勝利を収め、敢えて前に出ずとも役割を果たす。

・・・この列子の文章は、『老子』の第七十八章「弱の強に勝ち、柔の剛に勝つは、天下知らざるは莫くして能く行う莫し」や第六十一章「牝は常に静を以て牡に勝つ」等々のアレンジですが、柔道の理について道家思想以上に表現できる思想はないです。

嘉納治五郎(1860~1938)。
嘉納治五郎の理念や行動にしても、結局そこなんですが、これが分からないんです。江戸や明治の人々の100分の1も漢籍の素養もなく、向かい合う機会もないからそうなる、といえばその通りですが。

参照:Wikipedia 嘉納治五郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%89%E7%B4%8D%E6%B2%BB%E4%BA%94%E9%83%8E

横山大観画「游刃有余地」。
『荘子』の養生主篇に登場する「包丁」という料理人がいう、『臣之所好者道也、進乎技矣。(臣の好むところのものは<道>なり。<技>を進みたり)』。「技よりも進んだ境地」としての「道」の概念というのは、江戸時代には確実に理解され、明治までは継がれているんですが、これが今の日本人は理解できないんですよ。横山大観の「游刃有余地」なんて見せても分からないわけです。技と道の違い。「柔術」が明治の時代に「柔道」となったのかということが分からない。

参照:武道と荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5012/

参照:Wikipedia 柔術
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%94%E8%A1%93

Wikipedaで「柔よく剛を制す」を調べると『三略』からの言葉がどうたらこうたらとか情けない文字が並びますが、嘉納治五郎のいう「柔よく剛を制す、剛よく柔を断つ(柔剛一体)」を知りたかったら、残念ながら日本のものよりもディズニー映画の『ムーラン』とかドリームワークスの『カンフーパンダ』を鑑賞した方が早いです。

太極図です。

参照:Mulan 2- Lesson Number One (English)
http://www.youtube.com/watch?v=BMU8TLaX_jw

カンフーパンダと荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5104/

で、もう一つ。
『Matrix』(1999)。
『Matrix(マトリックス)』という映画には、東洋思想の要素がふんだんに取り入れられていまして、一作目と二作目は特に老荘思想の影響が強いんですが、それは「功夫(クンフー)」を多く扱う点にはっきりと見えます。アクション性を高めるためでだけはなくて、「精神と身体」についての老荘の哲学をベースにしているからでして、単なる東洋趣味であるともいえません。

たとえば、主人公のNeoが言葉ではなくプラグを通して、格闘訓練を受けます。訓練の名前は「柔術(Jujutsu)」のはずなのに、なぜかネオは“I know kungfu”と言います。これって日本人からすると、おかしいと思われるかも知れませんが、それはクンフーと柔術の両者の根底にある思想を指しています。

参照:『マトリックス』と胡蝶の夢。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5102/

参照:MATRIX - NEO uploaded SAVATE
http://www.youtube.com/watch?v=n_uzEj71AU4&feature=related

参照:Matrix - Neo vs. morpheus Full 1080p HD
http://www.youtube.com/watch?v=12u1nA7bXzc&feature=related

モーフィアス。
“Good. Adaptation. Improvisation.But your weakness isn't your technique.”(よし。適応も独創性も申し分ない。しかし、お前の弱点は技術の問題ではない。)

・・・ここでも「技ではない」というセリフがあります。「技」ではないものを指摘しているわけです。その後の“You're faster than this. Don't think you are, know you are. ”というセリフは、アクションを見れば分かるとおり、ブルース・リーを意識してのものです。

李小龍。
Bruce lee:"Don't think.Feel. It is like a finger pointing away to the moon."
(頭で考えるな、身体で感じるんだ。それは月を指さすようなものだ。)

参照:Youtube Finger Pointing to the Moon - Bruce Lee
http://www.youtube.com/watch?v=sDW6vkuqGLg

参照:『茶の本』と功夫。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5024/

Zhuangzi
「以瓦注者巧、以鈎注者憚、以黄金注者昏。其巧一也、而有所矜。則重外也。凡外重者内拙。」(『荘子』達生第十九)
→弓の巧みを競う場合、ガラクタを賭けているならば上手く的に当たるが、身につける帯鉤を賭けると当たりにくくなる。ましてや、黄金を賭けるとなると、周りすら見えなくなっているだろう。技量が同じであっても、賭けた物の価値に気を取られるからだ。外のことに気を取られて内のことが疎かになってしまうのだ。

・・・柔の道がスポーツになっただけでなく、商業化したオリンピックの下で行われるようになってから、つくづく思うのはここですね。

今日はこの辺で。


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